おもしろかった!『至福を追い求めて―60年代のスピリチュアルな理想が現代の私たちの生き方をいかに形作っているか』ドン・ラティン (著), 伊泉龍一 (翻訳)

60年代シリーズ、今回の本は宗教・スピリチュアリティがテーマ

至福を追い求めて ―60年代のスピリチュアルな理想が 現代の私たちの生き方をいかに形作っているか 』
ドン・ラティン (著), 伊泉龍一 (翻訳)

信じるものは救われるのか?

キリスト教をはじめ、東洋の宗教、新宗教、カルト、かつてこれらの宗教・スピの中にいた人たちが数十年後にどうなったか、子ども世代までを追うこの本を読んで考えてる。

まず、当時のアメリカでは、キリスト教が当たり前に生活の一部だったのかな。日曜学校や礼拝で価値観を身につけるとともに、教会に属することで地域のコミュニティに入っていったのなら。日本で言えば昔の檀家制度みたいなもの?

キリスト教といえば、カトリックとプロテスタント、東方教会という大きな枠しか知らなかった私には、プロテスタントの中にもたくさんの派があって、やってることも大事にしてることも結構違うのも驚き。

以前見たドラマ「Hand of God」で、神のメッセージを知るために「うちの教会ではできないから他の流派の教会に潜入して異言をきこう」というシーンがあった。そのときは意味がわからず聞き流したのが、この本を読んでなるほどと思ったり

仏教にも宗派があるけれども、私なんかは大きくなって初めて、法事の時に父方と母方でお経やお作法が違うのを知ったくらいなもので、教えの違いは今でもよく知らない。でも何らかのキリスト教会に属してる人たちは、他との区別を意識してるよう。

しっかり帰属意識がある人たちが、そこを抜けて他の宗教に行くのは、ルビコン川を渡る覚悟だったんだろうか。

そこまで駆り立てられた理由は?

どうしてそういう選択に至ったか、いろんな人たちのケースが書かれています。

宗教に戒律はつきものでも、「汝、〜するなかれ」禁止が多いのは、愛より罰による支配のがやりやすいからなのか?結婚式で聞くコリント人への手紙では「愛は寛容であり、親切である」「愛は思い上がらず」なのに、その実、非寛容で犠牲を強いてるようにみえる。

性的なことに厳しさがあるのは一神教の特性でもあるみたい。一夫一婦制は唯一の神に忠実であることと関連するという記述があった。他に愛するものがあってはいけない。

カウンター・カルチャーの民にウケたアレイスター・クロウリーが、『トートの書』で欲望を礼賛し、禁を破っても地獄で焼かれたりしない、みたいなことを繰り返し書いてるのは、当時の抑圧がどれほど強かったかを示してるのかも。

柵の中で疑問を抱かない従順な集団から、別の生き方、可能性を求めて飛び出ていった人たちがいたのが60年代だった。

それでどうなったの?は本で読んでください。

彼らの理想–意識を変えて、社会を変える、世界を変える–のままこの数十年が進んでいたら、21世紀は別の姿になってただろうか。

実現しなかったから意味ない?世の中を変えられるという希望を持てた当時は、今よりマシかも。今や変革の夢は潰えて諦念に覆い尽くされてないか?

そして今のスピリチュアルは個人的な利益に使うものになってない?「お金に愛されるために」とか、60年代に嫌われた物質主義に逆戻りだし、「社会なんて知らん、自分がよければ」になってる気がする。

そういうお金の集め方してる宗教・スピも紹介ありました。

ドン・ラテインさんの文章が私には合うのか、著者が直接行ったインタビューだったり、自身の考えも書かれていたりするからかな。

同じく60年代を書いてる『60sカウンターカルチャー セックス・ドラッグ・ロックンロール 』より読みやすかった。

至福を追い求めて ―60年代のスピリチュアルな理想が 現代の私たちの生き方をいかに形作っているか 
ドン・ラティン (著), 伊泉龍一 (翻訳)

序文、この歌の歌詞から始まる。Jimi Hendrix – Are You Experienced

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