「能動」と「受動」。
数秘術なら「奇数」と「偶数」、占星術なら「男性星座」と「女性星座」。色だと「暖色」と「寒色」。
積極的/受け身的、アクション/リアクション、外向/内向など、能動と受動の対比で考えることに慣れている。
けど、ちょっと待って、という話。
強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている
「する」と「される」だけでは見えなくなるのが「中動態の世界」なのでした。
中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
言葉の仕組みによって、ものの考え方が縛られる部分があります。「する」か「される」かしかなければ、どっちかにわけて考えてしまうもの。能動でも受動でもない中動態を知って、すっきりしたことがありました。
例えばこの占い教室。私、「主催者です」と名乗るのにどうも抵抗があって「受付係」と言ってるんです。この微妙な感じが何なのか。
誰かにやらされてるわけじゃない、自分でやってるんですけど、「私が意志してやってる」感がないといいますか。
まず皆さんがいてくださる。「続きが聞きたい」「もっと知りたい」という声をいただいて開講にいたる、一連の流れにのせてもらってるだけといいますか。無責任でありたいわけじゃなく、責任は負いますけどね。
タロットでいう「世界」のカードみたいな、網の目のように絡まりあったいろいろの中で、結果として今こうなってるし、まだそのプロセスの中にいる感じ。
そういうのありませんか?
この本には、伊泉先生の講座できいたハンナ・アレントの哲学や、ヘブライ語の研究や、「あぁこれは生命の木!」と思える箇所があって、単体で考えてたことがひとつながりになったような。
来週、この本の読書会に行きます。たのしみ~!
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